2016年 10月 27日
中島県議のブログから |
2016-10-25中島県議のブログ

写真は、23日(日)の行われた「赤狩りの里 秋の収穫感謝祭」の様子
と記載された中島県議のブログ記事を見たが、「赤狩り」とは共産党員が終戦後政府から弾圧され職場を追われたことを意味するが、益田市の赤雁町はそこに共産党員が隠住したのか、それとも赤雁町住民を卑下した隠語なのか」との問い合わせがあった。
よって本紙では中島県議は現在県議会の監査役を務めておられる有識者であり、他意はないと思うが調査のしようがないので後援会幹部の方にでも聞いてみたら—-と回答した。
強いて回答するとすれば、赤狩りと赤雁の語句の説明のみである。よって下記のごとく関連語句の説明をさせていただくことにとどめたい。
赤狩り(あかがり)とは、政府が国内の共産党員およびそのシンパ(同調者、支持者)を、公職を代表とする職などから追放すること。第二次世界大戦後の冷戦を背景に、主にアメリカとその友好国である西側諸国で行われた。
共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年の中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年の朝鮮戦争におけるソビエト連邦や中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「赤」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは"共産主義の恐怖"の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。
日本では赤狩り全般に対応する英語として「レッド・パージ(Red purge)」を使う場合もある。
レッドパージ( red purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。
赤雁の里の地名由来
赤雁の里 「一日農政局in 益田市」 平成27年11月25日(水) Ⅰ.赤雁集落の様子 赤雁地区は、市中心部から北東に約10kmに位置し、 2級河川「沖田川」沿いに 耕地と家屋が細長く点在す る中山間地域です。
赤雁地区の概要
赤雁 (アカガリ あかがり)姓氏
赤雁氏 姓氏家系大辞典 赤雁 (アカガリ あかがり) 長門本平家物語には前述の胝を「豊後国の知田村(大野郡南緒方村)と云所に赤雁大夫と云う者云々」と記述がある。
乙子狭姫(おとごさひめ)は島根県石見地方の伝説に登場する女神。単に狭姫とも。母神は古事記に登場するオオゲツヒメ。
赤雁についての伝説
太古の昔、赤雁に乗って穀物の種を伝えた狭姫という女神がいた。狭姫の母神はオオゲツヒメといい、身体のどこからでも食物を出すことができた。あるとき、心の良くない神がオオゲツヒメの身体にはどんな仕掛けがあるのかと面白半分にヒメを斬ってしまった。
息も絶え絶えなオオゲツヒメは狭姫を呼び、「お前は末っ子で身体も小さい。形見をやるから安国へ行って暮らすがよい」と言って息を引き取った。と、見る見るうちにオオゲツヒメの遺体から五穀の種が芽生えた。狭姫は種を手にすると、そこにやって来た赤雁の背に乗って旅だった。
海を渡って疲れた赤雁が高島(現益田市)で休もうとしたところ、大山祇(オオヤマツミ)の使いの鷹が出てきて「我は肉を喰らう故、五穀の種なぞいらん」と狭姫を追い払った。続いて須津(現浜田市三隅町)の大島で休もうとしたところ鷲が出てきて同じように追い払った。
しかたなく力を振り絞った狭姫と赤雁は鎌手大浜(現益田市)の亀島で一休みして、そこから赤雁(現益田市)の天道山に降り立った。更に比礼振山(現益田市)まで進むと、周囲に種の里を開いた。神も人も喜び、狭姫を種姫と呼んであがめた。
ある日のこと、種の里を出た狭姫は巨人の足跡に出くわした。土地のものに聞くと、大山祇巨人のことだという。巨人が迫って、土地の者は逃げ出した。狭姫も逃げ惑ったが、小さい身体ゆえどうにもならない。命からがら逃げ帰った狭姫だが、巨人たちがいると安国を造ることはできないと考えた。
赤雁の背に乗って出かけた狭姫だったが、とある山に空いた大穴からいびきが聞こえてくる。「そこにいるのは誰か?」と問うと、「自ら名乗らず他人の名を訊くとは何事だ」と返ってきた。声の主はオカミ(淤加美神)といって大山祇の子だった。恐ろしくてならない狭姫だったが、勇気を振り絞って、では直接お会いしたいと強い調子で申し出ると、オカミは「我は頭が人で体が蛇だから神も人も驚いて気を失うだろう。驚かすのはよくないことだ。それより我が兄の足長土に会い給え」と言って急に調子を改めてしまう。
狭姫は考えた。オカミは雨を降らす良い神だが、大山祇巨人と足長土はどこかに追いやらなければならない。
赤雁に乗って国中駆け回った狭姫は三瓶山の麓を切り開いて巨人たちを遊ばせることを思いつく。
帰路についた狭姫は巨人の手長土に出会った。「夫はいるか?」と問うと、「かような長い手ですもの」と手長土は自らを恥た。「私も人並み外れたちびだけど、種を広める務めがある。御身にも務めがあるはず」といって、狭姫は足の長い足長土を娶せた。手の長い手長土と足の長い足長土は夫婦で力を合わせて幸せに暮らしたという。オカミは後に八幡の神と入れ替わって岡見にはいないが、今でも時化の前には大岩を鳴らして知らせてくれるという。
乙子に関する由来
乙子=末子、狭姫=小さな姫という意味合いでちび姫の愛称がある。益田市乙子町にある佐毘売山神社ゆかりの伝説である。サヒメの名の初出は出雲国風土記の国引き神話で、三瓶山の旧名が佐比売山である。
オオゲツヒメの死体から五穀の種が生えてきたという点でハイヌウェレ型神話に分類される。新羅のソシモリという地名も言及され、記紀神話の影響が見受けられる。
石西地方(石見の西部)から出て、石央(同中部)、石東(同東部)と進み、三瓶山に到達。島根県石見地方を西から東へ開拓していく話である。特に島根県益田市、浜田市三隅町の地名が取り込まれた地名説話でもある。また、狭姫を拒んだ高島で穀物が獲れない理由を説明する由来譚でもある。
いずれにしても益田市の地名由来を汚すような文章表現は、政治家や有識者と呼ばれている者たちは慎重性を欠けてはならないであろう。伝説・仮説であっても益田市には美談や心を潤すものが多い。美しいもの大切にする心を伝授することも先生方の責務でもあろう。


写真は、23日(日)の行われた「赤狩りの里 秋の収穫感謝祭」の様子
と記載された中島県議のブログ記事を見たが、「赤狩り」とは共産党員が終戦後政府から弾圧され職場を追われたことを意味するが、益田市の赤雁町はそこに共産党員が隠住したのか、それとも赤雁町住民を卑下した隠語なのか」との問い合わせがあった。
よって本紙では中島県議は現在県議会の監査役を務めておられる有識者であり、他意はないと思うが調査のしようがないので後援会幹部の方にでも聞いてみたら—-と回答した。
強いて回答するとすれば、赤狩りと赤雁の語句の説明のみである。よって下記のごとく関連語句の説明をさせていただくことにとどめたい。
赤狩り(あかがり)とは、政府が国内の共産党員およびそのシンパ(同調者、支持者)を、公職を代表とする職などから追放すること。第二次世界大戦後の冷戦を背景に、主にアメリカとその友好国である西側諸国で行われた。
共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年の中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年の朝鮮戦争におけるソビエト連邦や中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「赤」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは"共産主義の恐怖"の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。
日本では赤狩り全般に対応する英語として「レッド・パージ(Red purge)」を使う場合もある。
レッドパージ( red purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。
赤雁の里の地名由来
赤雁の里 「一日農政局in 益田市」 平成27年11月25日(水) Ⅰ.赤雁集落の様子 赤雁地区は、市中心部から北東に約10kmに位置し、 2級河川「沖田川」沿いに 耕地と家屋が細長く点在す る中山間地域です。
赤雁地区の概要
赤雁 (アカガリ あかがり)姓氏
赤雁氏 姓氏家系大辞典 赤雁 (アカガリ あかがり) 長門本平家物語には前述の胝を「豊後国の知田村(大野郡南緒方村)と云所に赤雁大夫と云う者云々」と記述がある。
乙子狭姫(おとごさひめ)は島根県石見地方の伝説に登場する女神。単に狭姫とも。母神は古事記に登場するオオゲツヒメ。
赤雁についての伝説
太古の昔、赤雁に乗って穀物の種を伝えた狭姫という女神がいた。狭姫の母神はオオゲツヒメといい、身体のどこからでも食物を出すことができた。あるとき、心の良くない神がオオゲツヒメの身体にはどんな仕掛けがあるのかと面白半分にヒメを斬ってしまった。
息も絶え絶えなオオゲツヒメは狭姫を呼び、「お前は末っ子で身体も小さい。形見をやるから安国へ行って暮らすがよい」と言って息を引き取った。と、見る見るうちにオオゲツヒメの遺体から五穀の種が芽生えた。狭姫は種を手にすると、そこにやって来た赤雁の背に乗って旅だった。
海を渡って疲れた赤雁が高島(現益田市)で休もうとしたところ、大山祇(オオヤマツミ)の使いの鷹が出てきて「我は肉を喰らう故、五穀の種なぞいらん」と狭姫を追い払った。続いて須津(現浜田市三隅町)の大島で休もうとしたところ鷲が出てきて同じように追い払った。
しかたなく力を振り絞った狭姫と赤雁は鎌手大浜(現益田市)の亀島で一休みして、そこから赤雁(現益田市)の天道山に降り立った。更に比礼振山(現益田市)まで進むと、周囲に種の里を開いた。神も人も喜び、狭姫を種姫と呼んであがめた。
ある日のこと、種の里を出た狭姫は巨人の足跡に出くわした。土地のものに聞くと、大山祇巨人のことだという。巨人が迫って、土地の者は逃げ出した。狭姫も逃げ惑ったが、小さい身体ゆえどうにもならない。命からがら逃げ帰った狭姫だが、巨人たちがいると安国を造ることはできないと考えた。
赤雁の背に乗って出かけた狭姫だったが、とある山に空いた大穴からいびきが聞こえてくる。「そこにいるのは誰か?」と問うと、「自ら名乗らず他人の名を訊くとは何事だ」と返ってきた。声の主はオカミ(淤加美神)といって大山祇の子だった。恐ろしくてならない狭姫だったが、勇気を振り絞って、では直接お会いしたいと強い調子で申し出ると、オカミは「我は頭が人で体が蛇だから神も人も驚いて気を失うだろう。驚かすのはよくないことだ。それより我が兄の足長土に会い給え」と言って急に調子を改めてしまう。
狭姫は考えた。オカミは雨を降らす良い神だが、大山祇巨人と足長土はどこかに追いやらなければならない。
赤雁に乗って国中駆け回った狭姫は三瓶山の麓を切り開いて巨人たちを遊ばせることを思いつく。
帰路についた狭姫は巨人の手長土に出会った。「夫はいるか?」と問うと、「かような長い手ですもの」と手長土は自らを恥た。「私も人並み外れたちびだけど、種を広める務めがある。御身にも務めがあるはず」といって、狭姫は足の長い足長土を娶せた。手の長い手長土と足の長い足長土は夫婦で力を合わせて幸せに暮らしたという。オカミは後に八幡の神と入れ替わって岡見にはいないが、今でも時化の前には大岩を鳴らして知らせてくれるという。
乙子に関する由来
乙子=末子、狭姫=小さな姫という意味合いでちび姫の愛称がある。益田市乙子町にある佐毘売山神社ゆかりの伝説である。サヒメの名の初出は出雲国風土記の国引き神話で、三瓶山の旧名が佐比売山である。
オオゲツヒメの死体から五穀の種が生えてきたという点でハイヌウェレ型神話に分類される。新羅のソシモリという地名も言及され、記紀神話の影響が見受けられる。
石西地方(石見の西部)から出て、石央(同中部)、石東(同東部)と進み、三瓶山に到達。島根県石見地方を西から東へ開拓していく話である。特に島根県益田市、浜田市三隅町の地名が取り込まれた地名説話でもある。また、狭姫を拒んだ高島で穀物が獲れない理由を説明する由来譚でもある。
いずれにしても益田市の地名由来を汚すような文章表現は、政治家や有識者と呼ばれている者たちは慎重性を欠けてはならないであろう。伝説・仮説であっても益田市には美談や心を潤すものが多い。美しいもの大切にする心を伝授することも先生方の責務でもあろう。

by nakayama-yutaka
| 2016-10-27 12:47
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