2011年 03月 10日
地方選挙 |
津和野町の一体感の醸成どころか
日原地区の分裂
根深い合併の後遺症
津和野町民体育館で開かれた調印式には、中島巌津和野町長や中谷文一日原町長、特別立会人の松尾秀孝副知事ら約百八十人が出席。両町長らが署名し、松尾副知事と調印書を交わした。
両町は法定合併協議会を発足したが、公民館職員の処遇などをめぐる問題で協議が難航。日原町議会では合併に対する積極派と慎重派が拮抗(きっこう)していた。
議場で冷静な議論をしたのか! 住民の意思集約をしたのか!
津和野町と日原町の合併調印は、新町発足への一歩という晴れ舞台とはほど遠い光景だった。合併協議に反発する日原町議会の合併慎重派5議員が欠席するなど、議会内の混迷ぶりが浮き彫りになった。見切り発車を決断したといえる中谷文一日原町長や町議会の合併積極派は町民にその成果を問われている。
引き金は公民館への正職員配置問題だった。同議会の合併慎重派議員が協定項目で廃止の明文化盛り込みを主張するなどし、合併特別委員会は空転が続いた。法定協委員の積極派議員が、慎重派の合意を得ぬままに法定協の協議を進めた結果、感情的な反発も招き、混乱に拍車がかかった。
議会では合併積極派の藤井貴久男議長の不信任決議案も提出され紛糾。調印式典では、中島巌津和野町長があいさつで「両町議会の意思決定では、何とぞ適切な議決を頂くよう、お願いします」と、この段階に至ってもなお耳を疑う異例の発言もあった。
両派の議員数から、ぎりぎりで可決となり、議会内にしこりが残った。双方が議場で、分かり易く冷静な議論を戦わせたのか疑問が残った。
しこりを残した日原町は各種選挙が行われるたびに、合併推進派と反対派が因恨をあらわにして選挙を戦ったせいか、選挙熱の高い選挙民に変貌し、選挙屋とかブローカー類の金権欲の強いリーダーが育ち、合併反対派を弾圧し非国民的感情を煽ってきた。その結果、未だに賛成派が町の要職に就き、利権欲の強い建設業者らの後押しをしてきた。選挙にはその類のバックアップで選挙戦を優位に誘導してきた。
その結果、日原町内の一体感の醸成も程遠いものとなった。さらに、新津和野町民は行政に協力姿勢の希薄となり、県内納税滞納率ワースト1の汚点を残し、観光客数も半減、町民生活も経済も疲弊を続けている。
その責任は、行政執行の不手際にあることは明白である。本来、この合併は県の主導で推進されていた。益田市選出の宮隅元県議は、合併推進委員会の委員会に就任し、円滑な市町村合併が進むように泥もかぶり汗もかいていた。ところが、津和野・日原両町の合併協議で、上記のような混乱があったにもかかわらず、中村県議は、「住民の判断だから」ともっともらしいことを言うばかりで、何の動きもなかった。
住民の判断が混迷するから、よそでは市町村の枠を超えた立場の県議が陰に陽に働いていたのだ。泥もかぶらず、汗もかかず、この5年間で県内の人口減少率ワースト1になっても、なお「地域振興」を公約に四期目の選挙戦に臨もうという神経には恐れ入るばかりだが、これをまた推す勢力の狙いとは一体何なのだろうか。
津和野の選挙民は、山を登る努力をする者の足を引っ張る妬みの強い因習の強い前時代的感覚の持ち主が多い。町づくりについても未だ自冶会も組織されていない集落もあり、気概のある住民の育成に消極的である。
その気風が嫌で終生帰郷しなかった森鴎外の生誕祭を本気で取り組んでいるが、歴史上の人物や遺跡文化の恩恵で活性化を図ろうとする観光施策は、現在の若者に魅力を感じさせない。確かに、萩市の史跡遺産価値は150億円、津和野は50億円程度と推計されているが、その評価は文化的評価であり現実的でなく利用価値も低い。
観光客は、そこに住む人の幸せ感、生きざまを見に来る、そして共感し幸せを共有する旅人である。雪が降り積っても我が店の前の雪解けもしない店に入ろうとはしない。こんなことにも津和野凋落の原因が伺える。
話を選挙に戻す、吉賀町は岩国市との共存を望み、津和野は非協力住民、日原は利己欲の強い住民。それらが一体となっての町づくりはできない。議員も自己生活防衛が目的の選挙では施策もプランも絵に書いた餅に過ぎない。使命感の強い気概のある新人の台頭を望むのだが・・・
(上の写真は吉賀町役場)
by nakayama-yutaka
| 2011-03-10 00:21
| 県議選
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